クリスマスに想う

IMG_0088_20131214_185128私達は野獣の肉体を持ちながら、天空に想いを馳せる知的な存在である。ゆえに、野獣の論理に従って現実的に生きていく方が、気楽に生きていけると思う。しかし、その一方で、野獣の楽しみに己の存在を証しできない存在であることも確かで、汚辱と矛盾に満ち溢れた日常に精神的な苦痛や重荷を感じる存在であることも確かである。

そんな日常に、己の存在を証しようとすればするほど、その苦悩は限りなく益し加えられ、万物の創造主である神仏への想いや畏敬が深まるばかりであるかのように思える。

なぜなら、私達は日頃、己の道理を持って多くの事象を図っているが、それは知り得た知識や知恵が閉ざされた閉塞的な空間において正義や善意となり得るだけの話であって、多くは細分化された事象の断片を切り取った写真のようなものに過ぎないからである。正義や善意どころか、その行為自体が野獣の営みに過ぎないことに、いつかは気づき己の愚かさに苦笑するだけだからである。

人類が残した多くの巨大遺跡も様々な輝かしい文化遺産も、歴史や学術研究や教育も一時の慰めにはなっても、私達の永久なる想いには届かない。目にするものも手にするものも然したる意味はなく、時が経てばすべてが忘れ去られ、真実を知り得て語るものは誰もいない。ただ男と女がいて、野獣の営みが繰り替えされただけのことである。

多くの人は、そんな男女の営みの奥底に沈む想いこそが、遥か天空の彼方に存在する私達の故郷につながる想いであることに気づきながらも、どうすることもできないのである。

なぜなら、私達の想いは、多くのものが永遠の命を与えられ、寄り添い自由に自立して生きられる楽園にあるからである。私の知人がインドに旅して、それに近い世界に接し感動したと言うが、それは私達の肉体を離れた想いが遊ぶ天空の地とは程遠いものと言える。なぜなら、天空の地は、汚辱に塗れた肉体を離れた私達の想いが、寄り添い語らい永久に生きる世界だからである。

そんな世界が、あるかどうか分からないが、毎年クリスマスを迎えると、普段何気ない気持ちや想いも、片時も離れることなく天空の地につながっていることに、改めて気づくのである。そんな想いに、残る余生を神仏の御心に叶うように生き抜いていこうと想う。

jpjapon について

3匹の犬と優しいけど時々意地悪な元気なおばさんと桃やブドウに囲まれた田舎で暮らしています。音楽と写真が大好きなパソコンフリークです。日々の想いを、聖書の御言葉や御仏の教えを交えて仲間と語り合うのが大好きです。平凡な日常から垣間見る世間の出来事を、自分流に書き綴っていきたいと思います。
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