イエス・キリストの生誕が処女マリアによって為されたことには意味がある。なぜなら、それは、私達が生涯を掛けて追い求めるものが、男女の交わりを超えたものであることを暗示しているからである。
想いとはいつも取り留めもない。人は想いに苦悩し、人に傷つき人に癒される。しかし、その本質は分からない。なぜそう想うのか分からないのである。
生涯の多くが、男女の営みに終わる人生に何の意味があるのであろうか。その想いを、文化芸術にスポーツに表し、多くの感動を多くの人と共にすることに何の意味があるのであろうか。
しかし、それをなくしては一日たりとも私達は生きていけないことも事実である。さらに、想いは文化芸術に留まらない。国の存立も革命も改革も、想いなくしては為し得ない。私達は、想いを家族や仲間と共にし形にしなくては生きていけない存在なのである。
想いには力がある。祈りには霊力がある。その想いを、その願いを、私達は多くの出会いの中に見出し、その想いを身近な人と共にし形にして初めて、日頃の営みを超えた想いを、永久の救いを手にすることができるのではないだろうか。
何故かそんな想いに浸るクリスマス休暇の朝である。しばらくしたら連休に遊ぶ孫とクリスマスケーキを食べ、午後は妻と孫たちを駅に見送り、その後は音楽でも聞きに行こうと思う。