とりえ

00261227-231738.jpg人には何かしら「とりえ」があるもので、それをうまく活かせるか活かせないかでは雲泥の差がある。しかし、誰もが自分の「とりえ」にはなかなか気づけないもので、反対に自分の苦手のことばかりが気になって無駄な努力をしている人が多いように思う。

一方、「器用貧乏」と言われる人も結構いて、いわゆる「手八丁口八丁とか才色兼備」でありながら、なぜか貧乏くじばかり引いて、渡る世間の不条理には何とも言い難いものがある。

そんな「とりえ=タレント」についてちょっと考えてみると、私達はなぜか自分の「とりえ=タレント」に気づけない。時に、俳優の若山富三郎がテレビで、いつも破廉恥な行動で世間を騒がしている弟の「勝新太郎」について、「あいつは自分の良いところが(才能)分かっていない」と言っていたことが想い起されるが、座頭市シリーズで名を博した名優だったのに、晩年は薬物に溺れてしまい、やはり「自分の良いところ」が分からずに、肯定的な自分なりの人生を歩めなかったのではないだろうか。

まあ、一般的に何事も「嫌なこと」は長続きしないばかりか、ストレスを溜め込んで碌なことはない訳で、「好きなこと」なら寝食を忘れて没頭できるから、ストレスで自分の人生を踏み外すことがないように思う。だから、全くとるに足りぬ「とりえ」であっても、聖書にもあるように、本来は世間になくてはならぬタレントであることに間違いはない訳で、それに多くの人が気づけないのは、常日頃から世間体や世間の評価やステータスに惑わされてしまうからではないだろうか。

しかし、その一方でSmapの「世界に一つだけの花」と言う歌にもあるように「Only one に自己存在の意味や意義」があるような現実性を欠く抽象的なイメージが肯定される社会でもあり、私的には、そんな感傷からは早々に抜け出して、もう一歩踏み出し自分の「とりえ」に向き合って、勇気を持って自分を生きてほしい訳である。

その一方、世界の国や民族の中で、日本人ほど「お上品でお人好し」の人種は稀で、あの東日本大震災の被災者同士が互いに相手を思い遣って譲り合う姿には、全世界の人が感動したと言われるが、私達日本人には、正にお釈迦様の「利他行(他者を想い慈悲を施す)」DNAが深く刻み込まれているように思えるのであるが、しかし、そんな素晴らしい心や精神性を持ち合わせている「日本民族」が最近は何処かおかしいように思う。なぜ、自分の良いところに目を向けないで、下らぬ世間の流行や当世風の価値観に惑わされて「幸せになる切符」を捨て去ってしまうのだろうか。不思議である。

そもそも、学校教育では「読み書きソロンバン」を学習する「意味や意義や目的」を教えているのだろうか。もし仮に、自分で自分の「とりえ=タレント」に真面に向き合い、それを見極めることを教えない教育なら全く意味がない。教育とは悪戯に資格取得や大学入試に合格することが目的ではないからである。学生が各自が持ち得る「とりえ=タレント」に真剣に向き合い、それを自分なりに伸ばし自立した人間を形成していく素地をつくるものでなくてはならないからである。

ところで、そんな中にも、私達の人生は十人十色、人それぞれであって、とても一括りにできるものではない。本人の「とりえ=タレント」だけでなく、身体的な能力や障害、それに育った環境(親子関係や国や社会の制度や決め事)などが複雑に絡んでいることも承知の事実である。さらに、そんな境遇に勇気を持って立ち向かっていくのか、それともその場にある責任を回避して諦めてしまうかで、その後の人生ががらりと違ったものになることも周知の事実である。

まあ、私的にはいろんな障害があっても、最終的には自分が選択しなくてはならない訳だから、その場の責任や立場を回避することなく、建設的な自分なりの方法で勇気を持って第一歩を踏み出していく方がいいように思う。

ところで、ご案内のように、人間は多くの動物の中で、誰もが母親に少なくとも何年かは面倒を見てもらわなくては死んでしまう訳で、馬や牛などの動物と違って完全な個体として生まれてくる訳ではない。まあ、ある意味で誰もが未熟児で生まれてくる訳で、ゆえに極めて依存的な性格から抜け出せない生き物と言える。然るに、少なくとも今ある自分は日々日常において、自分なりの選択と判断をしていきた結果(もちろん社会の決まりごとや価値観や習慣、親や教師の判断基準に何らかの影響を受けている訳だが)であり、自分の人生や性格を「生まれ育った環境や運命のせい=境遇」と捉えるか、勇気を持って己の意志と意欲を持って「人生や性格は書き換えることができる」と考えるかでは、随分違った人生を歩むことになるように思う。

そんな訳で、いつまでも「生まれ育った環境や運命の犠牲者」であり続ける人生も人生であり、自らの人生や性格に真面に向き合い、勇気を持って「自分の人生や性格」を書き換えていく人生も人生である。まあ、多くは依存的な性格に終始し、母親や父親に代わる嗜癖や病理から抜け出せない人が多い訳で、依存的な性格を「自立して共に助け合う大人の淡い関係性」に置き換えていける人はあまり多くないように思う。

まあ、私的には、どうもがいてみても人間は一人寂しい存在であることに変わりはないので、そんな寂しさを多くの関係性の中に、共に自立した大人として助け合って生きることで、消し切っていけたらと思う次第である。

 

jpjapon について

3匹の犬と優しいけど時々意地悪な元気なおばさんと桃やブドウに囲まれた田舎で暮らしています。音楽と写真が大好きなパソコンフリークです。日々の想いを、聖書の御言葉や御仏の教えを交えて仲間と語り合うのが大好きです。平凡な日常から垣間見る世間の出来事を、自分流に書き綴っていきたいと思います。
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