flavor

H26年7月、さいたま市で全盲の男性(61)が連れていたラブラドールレトリバーの盲導犬「オスカー」が、何者かに刺され、その卑劣な行為が話題になったが、刺されてもオスカーは一切吠えなかった(?)との事件報道から、「何があっても吠えないように訓練すること自体が動物虐待だ」との意見も続出した事は、ご案内の通りである。

しかし、3匹のワンちゃんと日々日常を共にする私としては、仮にどんなに優秀な盲導犬であっても、自分の生命が危ういほどの危害が加えられた場合、うんもすんも言わずに、何らかのメッセージを飼い主に伝えないようなことは考えられない訳で、また、飼い主の方も、自分の愛犬の異変に気づかないようでは、その関係性も何処か希薄なものとしか思えない。

私の経験では、犬と飼い主は常に一体であって、共に強い絆で結れており、ある種の「共依存関係」にあるので、人間以上に以心伝心の関係にあるように思う。

そもそも、犬は元はオオカミで、人間が自分に都合の良いように飼い馴らした結果、さまざまな犬種が存在する訳で、朝出かける玄関先で私を見送り、帰宅すると尻尾が千切れんばかりに身体を捩って出迎えてくれる愛犬の姿には、無条件に癒される。まあ、一歩家を出れば、大なり小なり、自分を無にしなくては通らない世間に、愛犬は自分の存在を無条件に証してくれる唯一の存在と言えるのではないだろうか。

ところで、愛犬に限らず、よく動物は本能で生きていると言われるが、確かに、私達人間のように、本能を越えて「自由な意志」で生きている訳ではない。しかし、よくよく考えてみると、我々人間と同じように、弱肉強食の厳しい世界にあって、苦しみと悲しみを乗り越え「次世代に命を引き継ぐ」至上の命題や使命に、忠実に従って生きている訳で、その意味から、如何なる生物にとっても「生きることは苦しみであり悲しみであり、また喜び」である。さらに、その意味からして、仮に動物に「自由なる意志」がないとすれば、それは救いと言えるのではないだろうか。

そんな訳で、私達人間は「自由なる意志」があるからこそ、他の動物にない「悩みや苦しみ」を味わい、他を哀れみ、その想いと同情の中に、永遠なる想いを形にしていく唯一の存在だと思うのである。その意味から、愛は全てであり至上のものである。

そんな想いに、明日も何があるか分からないが、新たな出会いを信じて、憂いと哀れみの中に、愛を見出し喜びに変えていこうと思う次第である。

jpjapon について

3匹の犬と優しいけど時々意地悪な元気なおばさんと桃やブドウに囲まれた田舎で暮らしています。音楽と写真が大好きなパソコンフリークです。日々の想いを、聖書の御言葉や御仏の教えを交えて仲間と語り合うのが大好きです。平凡な日常から垣間見る世間の出来事を、自分流に書き綴っていきたいと思います。
カテゴリー: 未分類 パーマリンク