権利と義務、自由と責任、この2つの言葉は、お互いにセットになっていて、どちらに傾いてもうまくない。
やたら権利を主張しても、義務を放棄することになりかねないし、義務を強要しすぎても、権利を侵害することになる。
また、自由を追求しすぎても、責任を放棄することになるし、責任を強要しすぎても、自由を束縛することになる。
つまりこの辺は、バランスであり、法律や世間の常識や自分の信念などと照らし合わせて、もち得る情報の中から自己選択し自己決定して、その後の責任は自分が負うことになる。
そんなことから考えると、立憲民主党の山尾志桜里議員と倉持弁護士との関係は、倉持弁護士の奥さんの訴えを考慮すると、個人の思想信条の自由とお金では解決できない親としての責任との兼ね合いが問題で、お互いに法律の専門家であるからして、今後の2人の動向が見ものである。
ところで、今仮に病気になったとしたら、病気だから仕方がないと考えるか、日々日常の生活を自分なりにやりくりしてきた結果が病気であるからして、病気も自己責任と考えるのでは、その後の処し方に大きな差が出る。
まあ、インフルエンザを自己責任と考えるのも行き過ぎのように思うが、それでも、今日の医学情報を紐解けば、手洗いからウガイ、自己免疫系の強化など、個体レベルで対処できる方法はかなり存在する。
さらに細かく分析すれば、日ごろの生活パターンや思考パターンを見直すこともあり得る。その意味で、病気も自己責任である。
さらに、「出会い」なども多くは偶然のように思うが、自分が意識しない限り「出会い」もクソもなく関心も及ばない訳で、すべてが必然であり、自分の思考パターンが求めた結果である。
そんなことから、今日の世相を垣間見るに、今や3組に1組が離婚する時代を迎え、育児や介護の放棄など、社会的弱者と言われる子供や老人が犠牲になっているように思う。
その一方、夫婦別姓やLBGTなど、既存の家族制度をある意味崩壊させるような個体を優先する「個性や生きがいを重視した思考や思想」が広く社会に認知されるようになって、人種や民族や性差から思想信条宗教に至るまで、差別や偏見のない社会が標榜されつつある。
然れど、ここに問題がある。なぜなら、いかに自由が保障され個性や個体重視といえども、私たちの生活は集団で成り立っているわけで、極端なことを言えば、男と女がワンセットになって、お互いに欠けた部分を補いながら、欲望を満たしながら生きている訳で、決して1人では生き延びていけない存在だからである。
まあ、今の時代になれば、独り身でもお金さえ持っていれば自由に気ままに生活できるが、それでも、その欠けた部分を何らかの社会的なサービスで充足しているわけで、ペットの頭を撫でて癒されるくらいなら、女房殿や旦那様の頭を撫でた方がいいように思うが、そこはそういかないところに、私たち個体の思考パターンに問題があるように思う。
まあ、社会制度に問題があるのか、個人や個体の思考パターンに問題があるのか、皆目見当がつかないが、はっきり言えることは「人生は全く意味不明」ということで、考え次第ではどうにでもなる難解な代物と言うことである。
だからして、結論を否定するか肯定するかは自分次第と言える。
そんなことから、私的にはその日の気分に応じて、否定したり肯定したりして、やり越していけば良いように思う。
そんな訳で、新たな出会いも目線を変えれば違ったものになる。そんなことから、あまり気は進まないが、今年の春は、カラフルな女性の春の装いには目を封じて、しばらくは世間を見渡してみようと思う次第である。