震災の日に思う

2011年3月11日の東北大震災から10年の月日が流れたが、津波と原発事故の恐ろしさに、平凡な日常の大切さを痛感したことを覚えている。さらに、このようなcatastropheに対して、今日の近代文明がいかに脆く脆弱であることを思い知った。

社会インフラや社会制度ばかりでなく、私たちの精神構造においても、ほとんどのものが役にたたなかったわけで、何が起きるかわからない現実に、初めて本気で向き合ったようになったと思う。

遠くアフリカの貧困地域や中東の紛争地域における惨状を時々山本美香さんのような勇気ある行動によって知る事はあっても、その現実を自分のこととして捉える事は難しい。それだけ、私たちは毎日の生活に追われているわけで、結局は他人事で終わってしまう。

しかしながら、今日のコロナ禍の社会の状況や世相をみるに、その予兆は御巣鷹山の日航機墜落事故や東北大震災にあったわけで、人間が巧みに作り上げた政治体制や経済金融体制や多くの価値観や権威が、ある種の嘘偽りや幻想や虚構の上に成り立っていることを、もっと早くに気づくべきであった。

しかしながら、まだ遅くない。私たちは今日人間が作り上げた価値観や世界観や権威でなく、もっと素直に地球に生きる生物として、ワンちゃんやネコちゃんのように自然に「幸せに生きる」ことを学べると思う。

もちろん、生きるにはお金は大切である。しかしそれはあくまでも生きるための手段であって目的でもなく本質でもない。また、多くの社会規範や法律や哲学、多くの宗教や観念体系や世界観や価値観においても同様で、それは人間を幸せにする為のものでなくてはならない。しかし、今日の状況を見るにつけ、それらは私たちを幸せにすると言うより、搾取するための道具として使われているのが実態である。

そんな中、今回のコロナパンデミックによって、すべての権威や価値観や信念体系が地に堕ち、全く無力であることを知ると同時に、自分を証しする鏡は人間社会には存在しないことに気づいた。

明日の命もわからぬ現実に、ポカンと空き缶のよう口を開け空を眺めて突っ立っている自分がいる。私たちはお金や社会の評価や権威や利権にあまりにも毒されているのではないだろうか。そんなものに縛られず、もっと自由に愛の本質に沿って、幸せになる努力をしても良いように思う。

まあ、愛や情にあまりにも甘えすぎた私としては、その本質に迫る生き方を、人間ではなく3匹のワンちゃんたちとの生活から学び、微かな光明を得たように思う。

そんな想いに、今日のコロナ禍において、誰もがみんなそれぞれに、新たな幸せへの道を探り当てる時期に来ているのではないだろうか。

敗戦の色濃く残る現実に、改めて人間の恐ろしさを痛感するが、不本意ながらも母国のために命を落とした先人の想いに報いるためにも、各人が勇気を持って「自分だけでなく誰もが幸せになれる道」を選ぶ工夫と努力をすべきではないかと思う。

新たな時代の潮流に、罪深き意識を捨て、囚われのない意識で繋がる社会の再生に忠心より期待したいと思う。

jpjapon について

3匹の犬と優しいけど時々意地悪な元気なおばさんと桃やブドウに囲まれた田舎で暮らしています。音楽と写真が大好きなパソコンフリークです。日々の想いを、聖書の御言葉や御仏の教えを交えて仲間と語り合うのが大好きです。平凡な日常から垣間見る世間の出来事を、自分流に書き綴っていきたいと思います。
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