東京大会で性的マイノリティーであることを公表している選手は、583人の日本の代表選手の中にはいないが、海外の選手の中には11日時点で29の国と地域の183人と、56人だった前回大会の3倍を超えている。

アルゼンチンを始め複数の国の旗手を彼らが務めたことや競技会場で編み物をするシンクロ高飛びの英国の金メダルリストも話題となった。

また、トランスジェンダーで初のオリンピック出場を果たしたニュージーランドのウェイトリフティングの選手もいたようで、彼らは一律に一般的な社会通念や常識から深い孤独感を抱いていたようで、それがオリンピック出場の機会を得られたことで、世界中の性的マイノリティへの大きな励みになったようである。

今回の大会では東京新宿区に、交流拠点として「プライドハウス東京レガシー」が開設され、話題となったが、正に個を象徴する時代の流れを感じる。

記録なしで終えたニュージーランドの女子87キロ級ウェイトリフティングのハッバード選手は競技のあと、「私はずっと、ただ“私自身”でいたかっただけなんです。今回、その機会をもらえた事がとてもうれしい。私がここにこうしていることで誰かに勇気を与えられたらと思っています」と話したと言うが、確かに自分が自分でいられることの意味と大切さを痛感する。

まぁ、人間が安全に安心して暮らすには、ある程度の社会的ルールやモラルが必要であることは確かだが、だからといって法律や社会制度が個人の尊厳を傷つけるものであってはならない。

その意味で、次世代における教育の在り方も変わってくると思うが、私のような団塊の世代では同性婚に対してもなんとなく違和感を感じてしまうが、性的指向(嗜好)に関しては、個人のレベルはいざ知らず、社会的に偏見や差別意識を取り除くにはかなりハードルが高く、まだまだとてつもない道のりがあると思う。

しかし、まあ、どんな風に生きようが、思い通りにならないのが、世の常、娑婆だから、いちいち人の目や関係に目くじらを立てても仕方ない。

そんなことから、理想の愛や幸せは、いつの世も、抽象的に文化芸術で豊かに表現されているが、その意味から、私たちは皆孤独である。

そんな世知辛い想いを背に、我が家の解体作業も順調に進み、昨日は今までにない太陽の光と風通しを台所で味わったが、改めて生活環境の大切さを痛感した。

人生、あってもなくてもみな同じ、仏法で言う「有無同然」であるからして、できればなるべくものを持たずして、寡欲にして清楚に生きるのが、「自分が自分でいられる。」秘訣ではないだろうか。

何もない「空間」とは、何もないことではない。空間には空間が存在するわけで、「腹八分目に医者いらず」と言われるように、空きスペースやゆとりがなくては、生活は順調に立ち行かない。

その意味から、常に断捨離を心がけ、貨幣経済における物的支配意識から逃れると同時に、自分自身でいる時間を持つことの意味と大切さを改めて痛感する次第である。

すべてに感謝したいと思う。

ちなみに、シューマンは自由度があって落ち着く。多分壊れた人間には最もfavoriteな作曲家ではないかと思う。重ねて感謝したい。

jpjapon について

3匹の犬と優しいけど時々意地悪な元気なおばさんと桃やブドウに囲まれた田舎で暮らしています。音楽と写真が大好きなパソコンフリークです。日々の想いを、聖書の御言葉や御仏の教えを交えて仲間と語り合うのが大好きです。平凡な日常から垣間見る世間の出来事を、自分流に書き綴っていきたいと思います。
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