勇気

ご案内のように、新しいことを始めるにはそれなりに勇気や気力が必要になるが、反対に何かをやめるにもそれなりに勇気や気力がいる。

特に、悪習慣を断ち切るには、人間はかなり依存的なところがあるから、気力や勇気だけでは難しい。簡単に言えば別の習慣に置き換えるくらいが関の山である。

そんな視点から、最も依存性の高い食習慣について、コロナ騒動に明け暮れるこの2年間の状況を振り返ると、今回のコロナ騒動で、免疫力を高める食事を心掛けるようになったのはいいが、ずいぶんコロナ以前の食事と内容が変わった。

まあ、時代が変われば、食べ物や食事スタイルが変わるのは当然だが、よく考えてみると、コロナ対策なる食事法が正当なものとは思えないし、昔の日本食が良かったとも言えないし、かと言って、ダメと言われる今日のファーストフードや冷凍食材を使った食事も、時と場合によっては便利で話題性から会話も弾み、絶対ダメとは言い切れないものがある。

事実、私は最近巷の免疫健康食に飽きてしまい、健康に良いと言われる大豆製品の代わりに、ヨーグルトやりんご酢や果物をパン食したり、お肉や冷凍食材やテイクアウトも以前より食しているが、何故か免疫に気を遣い健康食を食していた時より体調がよく、長年服用してきた胃腸薬とも縁が切れている。

まあ、「人生万事塞翁が馬」なのか、はっきり言って何が何だかわからないが、所詮どんな科学的なエビデンスも、ある一定の条件下の「確からしさ」を示しているだけのことで、誰にでも当てはまるものでもないと思う。

そんなことから、今日の社会が個人にフォーカスして、変化や多様性を重視し、LG BTなどの性的な特性についても寛容な社会に移行しつつあることは理解できる。

まあ、それほど、私たちはそれぞれに特異性を持った固有な存在なわけで、それは身体だけでなく精神的霊的な働きにおいても言えるからで、そんな複雑怪奇で同位性や同調性に欠ける固有の特異性を無理して結びつける意味や意義があるか疑問に思う。

新時代を見据えた社会的な新たな課題だと思うが、抽象性と具体性の狭間の中で、ますます息苦しい社会になりつつあることは確かである。

まあ、社会的秩序の維持からして、ある程度の協調性や同調性は必要ではあるが、それも必要以上に神経質に細目にわたって規制する社会や生活環境では、やり切れないし、疲れてしまうし、極めて抽象的な愛を求めすぎて離婚に至るようなことになっては元も子もない。

その意味からして、親が先駆的な先進的な考えを持っていればいるほど、それなりに進んだ教育環境に子女を養育する必要がある訳で、形だけの協調性や同調性を教育する今日の日本の学校教育と世情にはかなりのギャップがあり、子供たちを苦しませているのではないだろうか。

まあ、建前教育から「意味なき模範解答」を子女に施しても、いつかは個体として破綻する訳で、それには、教師自体が建前教師であってはならないと思う。

まあ、とにかく今の日本は、社会的に地位があり尊敬される人ほど建前人なわけで、御身大切にして、本心を語らぬところに問題がある。そして、さらに、それが巡り巡って自分の身に降り掛からぬ手立てに躍起になっていることに問題があり、そんな浅知恵に今日的な科学的エビデンスの愚かさが垣間見える。

そんなわけで、人生全て成り行き、抽象性と具体性の狭間の中に、己の存在の証をすることの難しさを痛感する訳で、自我なる存在であるが故に「死ねば皆仏になる」と言う親鸞の言葉は救いである。

愚かなりし日々日常に、微かな一筋の光明を頼りに生きられる幸せに感謝する次第である。

jpjapon について

3匹の犬と優しいけど時々意地悪な元気なおばさんと桃やブドウに囲まれた田舎で暮らしています。音楽と写真が大好きなパソコンフリークです。日々の想いを、聖書の御言葉や御仏の教えを交えて仲間と語り合うのが大好きです。平凡な日常から垣間見る世間の出来事を、自分流に書き綴っていきたいと思います。
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