夜明けに想う

集団原理の中で生きる私達日本人は魂の救いは単なる個人の問題ではなく、先祖から子孫に至る一族郎党一門の問題である。

ゆえに、「信じる者は救われる。 信じない者は地獄行き」と言った、個人の観念に救いを帰着するキリスト教などの一神教には、どうしても馴染めないものがある。万物に遍く慈悲深い御仏の教えと異なり、何処か差別的で排他的、多様性に乏しく偏見や分断や分裂を生じ易いものに思えてならない。

事実、ヨーロッパではカソリックとプロテスタントによる宗教戦争があったり、現在でも中東において、同じく一神教であるイスラム勢力との争いは収まる気配がない。

そんな一神教は、神との契約に基づく信仰が基本だから、仮に信仰によって自分が救われても、無償の愛を注いでくれた父母は地獄行きとなると、父母あっての自分であることからして、全知全能の神としては、あまりにも無慈悲に思える。さらに、サタンの存在から罪人として教会に束ねる手法は、ややもすると偽善的なものになり、邪悪な者達の格好な利益誘導の手段となり、まともな人間が餌食となるリスクを孕んでいる。

そんなことから、私的には万物に神神(八百万の神)が宿るとする日本の宗教観の方がまだマシに思える訳で、机の上のコップ1つにしても、作り手や贈り主の想いが込められていると想うと、謂れなきものへの接し方も自ずから定まってくる訳で、うっかりメリカリで盗品などを手にしたらとんでもない因縁を背負い込むことになりかねない。

まあ、自分流に1日を振り返れば、身近な森羅万象に神々が宿っているわけだから、自分にとって良い神も悪い神もないわけで、さまざまな神々と日々日常いられると思うと楽しくなる。1人でも、1人ではないからである。

そんなわけで、時代は変化と多様性の中にあって、私たちの宗教観も大きく変化している。ハロウィンやクリスマスを家族や仲間と楽しみ、新年は神社に参拝し、幼少期7歳までは神社参りし、結婚式は教会で、お葬式はお寺で執り行う平均的な日本人の宗教観こそ、変化と多様性の中にぴったりはまる宗教観に思え、世界3大宗教の神々も八百万の神々の一員として鎮座する宗教観には、現実的で身近なものを感じる。

そんな神々に囲まれ、今日も1日が始まる。もう直ぐ日の出である。まだ外は明るくないが、どこかのお寺の鐘が聞こえる。鳥たちの鳴き声もするようになって、お天気は曇りだと言うが、暖かくなったら無理をせずに頑張ろうと思う。

人は想いに生きる。すべてに感謝したい。

jpjapon について

3匹の犬と優しいけど時々意地悪な元気なおばさんと桃やブドウに囲まれた田舎で暮らしています。音楽と写真が大好きなパソコンフリークです。日々の想いを、聖書の御言葉や御仏の教えを交えて仲間と語り合うのが大好きです。平凡な日常から垣間見る世間の出来事を、自分流に書き綴っていきたいと思います。
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