昨日は冬至、この日を境に日が長くなると思うと嬉しくなる。親戚筋への挨拶やお墓参りも終わり、軒先の千両の赤い実に、間近に迫るお正月の気配が漂う。
ところで、巷では神田沙也加さんの急死から、様々な憶測が飛び交っているが、有名著名人の死は、他の重大な社会的な変化を見落とすことになるから、注意を要する。
まあ、世間や社会がどうであれ、毎日規則正しい生活をしておれば、極端な物質主義や精神主義に陥ることもなく、心身共にバランスの取れた生活ができると思うが、コロナ禍における何処かお門違いな精神性に固執する今日的な世相には違和感を覚える。
まあ、中世ヨーロッパの目に見えぬ世界への間違った世界観に端を発する「魔女狩り」から「目に見える世界」しか認めない科学万能主義による進歩発展も限界が見え始め、新たな「魔女狩り」的な精神世界への回帰現象が観て取れる。
まあ、物質主義も精神主義も共に絶妙なバランス感覚が必要なことは言うまでもなく、どちらに傾いてもいけない。物質主義に傾けば生活環境の悪化につながるし、精神性に傾けばカルト的な社会が形作られる訳で、「無から有を作り出せない被造物である人間」が、何かしらのものを生み出そうとすれば、それは他者の根元的な存在を奪うしか手段がない訳で、その意味からして、私達人間は生まれながらにして、弱肉強食の勝者にあらねば生存できぬ運命を背負っている。
まあ、簡単に言えば、自分なりの居場所を確保するには他者の犠牲なくしてあり得ない訳で、法的な合理性を持ってしても、何らかの搾取に生きていることに変わりはない。医者と患者、警察と泥棒、教師と学生、反社会的組織と統治組織、教祖と信者、店主と顧客、亭主と女房など、元を辿れば穴一つ、共に生業における「同じ穴の狢」に過ぎない。
そんな想いに、今日も家の掃除に始まり、土作りや料理に勤しんでいるが、ここにきてやっと敷地内の東電の電柱の敷設替えが年明けに決まり、敷設業者が現場の下見にやってきた。小さな重機を入れることから場所さえ特定できれば、埋もれたコンクリの破片などを掘り起こしてくれるとのことで、こんな千載一遇のチャンスには滅多にお目に掛かれない。
待てば日より、棚からぼた餅、幸せは人が運んでくる。無理して人のものをかっ拐うより、寄せる波に乗った方が楽で幸せになれる。
そんな楽観主義も令和の大艱難時代にはアリであり、「なりゆきケセラ」で幕引きし、来春に夢と希望を繋ぐもよし、クリスマスを祝い、その救いの手に身を委ねることもアリだと思う。
何れにせよ、健康第一、無理我慢もほどほどに、マンネリ惰性もほどほどに、己の命さえ授かりものであるからして、いつも喜びの中にいることこそ神仏の御心に叶うことではないかと思う次第である。