不安

生きる上で不安がないと言えば嘘になる。生きものである以上、私達は常に死に直面しているからである。病気になったり災害や事故にいつ遭遇するのか分からない。それに、愛する人や親しい友人といつ別れるやも知れないのである。

そのような中、最近は世界的に自然災害が多くなる一方、中東やアフリカやインドなどの広範な地域において、イスラムやキリスト文化圏の主導権争いが激しさを増している。それに、自国の経済政策ではどうにも制御できないグローバル化した世界経済の行方は、常に世界恐慌を引き起す火種を胎んでいる。

このような先が見えない不安の時代ではあるが、確実に私達の生活水準は上がっている。いま、南極や北極に行こうと思えば行けるし、何年か後には宇宙に旅する時代でもある。様々な問題や課題を抱えながらも、昔のような過酷な労役や多くの差別や迫害から、私達は着実に解放されてきている。このような、歴史的な実態を踏まえる中、世界の終末を預言したり、その思想を流布する人達は如何なる精神構造を持っているのであろうか。

キリスト教にしてみれば、確かに聖書には終末思想が書かれている。しかし、それは悪戯に不安を煽り利益誘導につながるものではなく、いつの世にあっても私達の社会生活をよりよくするものでなくてはならない。聖書にあるように、実りある人生を生き抜くには、生を超えた死を意識しない限り為し得ない。生きるとは死することであり、ある意味で、生と死は同時進行しているとも言えるのである。

だから、それぞれの教えの宗教観に基づき、終末思想を伝え真理を悟るにしても、それが信仰を強要するものあったり利益誘導につながるものであってはならない。真理を知ることによって、私達は今あることに感謝して、明日を生き抜く知識と知恵を磨くことに全知全霊を傾けなくてはいけないのである。そんな方向性さえ示せない宗教は邪教であり、信じるに値しない。

日常を通して、関わり合う人が貧しくも不安から一時でも逃れ、その想いを共に語り合い、励まし合って明日への勇気を互いに与え合うことが生きることではないかと思うからである。なぜなら、想いが全てであり、その想いは天空よりきたるものであるからである。

だから、愛を語り伝えることである。人を愛することである。愛こそ全てであり、愛があれば全てが許され、その罪咎も失敗も無に化してしまうからである。まるで、トランプのジョーカーのように、愛すればこそ、全てが許され報われ報いられるからである。

ある教会の余りにも暗い終末思想感観によせて、つい書いてしまった。悪気はないので悪しからず。なぜなら、神の愛は誰にとっても真理であるからである。

jpjapon について

3匹の犬と優しいけど時々意地悪な元気なおばさんと桃やブドウに囲まれた田舎で暮らしています。音楽と写真が大好きなパソコンフリークです。日々の想いを、聖書の御言葉や御仏の教えを交えて仲間と語り合うのが大好きです。平凡な日常から垣間見る世間の出来事を、自分流に書き綴っていきたいと思います。
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