飯田橋

飯田橋には、神楽坂下の外堀通りに面した場所に昔は佳作座と言う映画館があって、学生の頃よく観に行ったり、最寄りの逓信病院では子供達が産まれたり、妻の父が病気で長らくお世話になったりしたので、私には忘れられない場所である。

長くカーブしたホームやなだらかなスロープが改札に続く変わった作りの駅舎には、いろんな想い出が刻まれていて、一言では言い表せない。

そんなことで、今年はお花見を兼ね、飯田橋から市ヶ谷に通じる土手沿いの桜並木を歩いてみたが、ホームの端から歩き始め、なだらかなスロープの通路を通り抜け改札に差し掛かると、昔の想いが一気に込み上げてきて何とも言えない気持ちになった。

そして、改札を通りお目当ての桜並木に向かうと、道すがらの広場で、咲き誇る桜の木をバックに若い女性達が写真を撮っている。邪魔にならぬよう避けて通ると、桜に負けじと作る笑顔やポーズに薄紅色の桜の花が重なって、正に春を実感した次第である。

その後、信号を越え土手の桜並木に入ると、桜の花の隙間から眼下には外堀沿いに行き交う電車が一望できた。年月の流れが嘘のようで、呆然と立ち尽くす自分が一人取り残されたような寂しさと春の喜びが入り混じり不思議な感覚に囚われた。

周りでは、人それぞれに桜をモチーフに写真を撮って楽しんでいたが、ベストアングルを決めかねていた女性に見かねてアドバイスしたところ、桜がご縁でカメラ談義に花が咲き、思いも掛けない会話に、また一つ想い出ができた。正に感謝である。

もちろん、花御座やブルーシートに座り弁当を広げて食べたりしているグループもいたが、そんな中には、近くの警察病院や逓信病院の患者さんや医療関係者らしき人達もいて、聞くとはなしに聞こえてくる会話には、春の華やかさとは裏腹なシリアスな話もあって複雑な思いがした。

まあ、人生も晩節を迎えると、誰もが死に際を考えると思うが、願わくば、痴呆症や人格障害などを患わず醜態を晒さぬ内に、桜の花のように潔く散りたいと思う。

そんなことを考えながら、途中から桜並木を逸れてしばらく行くと、何やら蕎麦屋の匂いがする。角を曲がると何処にでもある立ち食い蕎麦屋があった。看板には「かけそば290円」とあったが、ネギとそばつゆの匂いが食欲をそそる。

ところで、蕎麦は小腹が空いた時はもってこいの食べ物で、ラーメンより安くて速くて簡単に食べられるから便利である。私はラーメンより蕎麦が好きだが、孫はそばが好きではないから、孫とはいつもラーメン屋か洋食屋になってしまう。先日も上野の精養軒でハヤシライスの他にポタージュを頼むとか言ってパパにダメ出しされていたが、私と二人の時は私がポタージュを取ってやるので、そんなことになったと思う。

まあ、爺婆は孫には甘いと言うが、本当にその通りで、私と孫は出掛けると、それこそ弥次喜多道中まっしぐらで、帰り道は大概パパやママに内緒で、あちこち観て歩いたり食べたりしているが、女の子は実におキャンで楽しい。こんな時期もそう長くはないから、よく観劇などに連れて歩くが、そんな自分を振り返ると、我が子にしてやれなかったことを、今になって孫にしているような気がする。

過ぎ去れば、全てに意味を失う。つくづく、物事には旬があることを痛感する。そんな想いに、今あることに感謝して、身近な出会いを大切に実りあるものにしていこうと思う次第である。

jpjapon について

3匹の犬と優しいけど時々意地悪な元気なおばさんと桃やブドウに囲まれた田舎で暮らしています。音楽と写真が大好きなパソコンフリークです。日々の想いを、聖書の御言葉や御仏の教えを交えて仲間と語り合うのが大好きです。平凡な日常から垣間見る世間の出来事を、自分流に書き綴っていきたいと思います。
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