理性や知識欲は好奇心や探究心で、また本能や肉体的な欲求や快楽は色気や食い気で、それなりに満たされると思う。
しかし、そんな物質的精神的な欲求が満たされても、なおかつどこかに何かを忘れてきたような虚しさや虚無感を感じるのは、なぜだろう。それは、私達の感覚や感性では推し量れない霊性にあるからではないだろうか。
なぜなら、聖書的に言えば、創造主が人間をご自分に似せてお作りになったことから、心の奥底に霊性がない訳はなく、アダムとイブがエデンの園で禁断の実を食べる前は、そんな霊的な感覚や感性は十分に機能していたのではないかと思われる。
つまり、霊長類の頂点に君臨する私達は、生まれながらにして、霊性や仏性が兼ね備え得られてはいるものの、何らかの成り行きから機能しなくなっていることが、日頃の虚しさや虚無感を感じる理由ではないかと思う。
もし仮にそうだとしたら、日ごろの虚しさや虚無感を、物質的であれ精神的であれ、私たちの感覚や感性で、いくら努力をしても満たされるわけがなく、完全にお門違いである。
まあ、筋肉も2週間使わないと退化すると言うから、理性や本能を超える霊性や仏性も使わなければ退化してしまうわけで、日常の精神的な虚しさや欠乏感は、心の奥底に眠る霊性や仏性の働きを高めてやれば、ある程度解決できるのではないだろうか。
その意味から、ウパニシャッド哲学の「賢者は外に目を向けず、内なる真我をみる」と言う文言は、霊性や仏性を目覚めさせる第一歩ではないかと思う。
まあ、欲得や邪な感情から離れ、更なる気持ちで人やモノに接した時の感覚や感性、第六感とでも言うのか、「なんとなく怪しい、危ない、胡散臭い」といった感覚なども、身の危険をとっさに回避する霊性や仏性の働きではないかと思われる。
そんなことから、日常茶飯事、神仏へのコンタクトを欠かさぬことが、心の平安や安らぎや癒しを得るコツではないかと思う。
そんな訳で、今日も寒さに負けず、今から2時間ほどガーデニングをして、大地と天空に想いをつなげ、昼に自家製鶏がらスープと、チャーハンでも作って食べようと思う。
料理は楽しい。さすがに正月料理は妻に譲ったが、根菜類の薄味には一日の長がある。悔しいので、来季を目指して頑張りたいと思う。