毎年10日過ぎには木蓮の白い花が咲くのだが、今年は3月初旬に冷たい風が吹き荒れたせいか、まだつぼみである。根元の水仙も花芽が3つと、今年はちょっと寂しい春である。
昨年ナスやキュウリなどの野菜の作付けが早過ぎたので、今年はじゃがいもなども玉ねぎの収穫が終わってから、少し遅めに植えてみようと思うが、試しに昨年秋に植えつけたスナップえんどうは何とか冬を越したようで青々した新芽に元気をもらった。
そんな他愛のない日常に、自分なりの居場所があって心底幸せだと思う。まあ、振り返れば、その時折の目標や目的に生きてきた訳だが、とどのつまりは心地よい居場所を見つけることに尽きるのではないだろうか。その最大の敵は「刷り込まれた想い」にあるような気がする訳で、社会通念や常識や作られた意識から抜け出せずにステレオタイプにしか物事を捉えられず、より広い視野から思考できなかったことが悔やまれる。しかし、社会に生きる限り集団の一員として生きる訳だから、マスコミやマスメディアの影響下にあることは確かだし、それに対する批判や反論や抵抗があってしかるべしで、一言で言えば何事にもメリットやデメリットがあるとしか言いようがない。
まあ、成り行きと諦めの中、そんな妥協の産物が人生ではないかと思う。そんな想いに、改めて今あることに感謝したい。
日本民族の殲滅が危惧されるが、日本民族の霊性は日本語がある限り、これからも若者に引き継がれていくと思う。確かに時代はプログラミング言語にしてもアルファベットが基調だが、生命の根源を為す霊性にコミットするには日本語でしかない。世界に幾多の言語があれど、日本語は万葉の詩歌にあるように想念やイメージの言語であって、他の言語とは全く異なる異質な言語であり最も天空に近い言語、言葉ではないかと思う。