毎朝6時になると近くのお寺の鐘が鳴る。6時ピタリでなく必ず5~6分前に鳴るのが解せない。何か意味があるのだろうか、調べてみたくなった。それにしても、昨夜は深夜までビデオ三昧、垢抜けない昭和のテレビコマーシャルに笑ってしまった。今や全盛のAppleやGoogleやSAMSUNGのカッコいいCMもダサく感じる時が来ると思うと、やはり物事への執着は考えものである。

そんな中、最近結構人気の動画YouTuberさん達が軒並み高額のライカのカメラ(250万を超えるレンジファインダーのレトロ風の高級カメラ)を立て続けに購入して動画から写真に乗り換える傾向が見受けられる。オートフォーカスでなくマニュアルフォーカスの何の変哲もないカメラだが、一つ一つが手作りで美術工芸品と言える作りをしている。そんな高級カメラでピントをわざわざファインダーで合わせて、ここぞと思うシャッターを切る醍醐味はスマホのAIカメラとは一線を画するものがあるのだろう。

それにしても、人間とは本当に贅沢で欲張りな生き物である。私的にはフィルム時代に上から覗いてマット面に左右反対の写像を見ながら絵づくりをするタイプのレトロカメラへの想いが拭えないが、その頃の白黒写真には何とも言えぬ趣がある。一枚一枚がお金も手間も掛かり丁寧にならざるを得なかった訳で、今のように4000万画素の精細写像が簡単に得られる技術の進化には驚きしかない。仮に昭和の時代にこんなものを見せられたら、正に原始人がヘリコプターや飛行機に遭遇したようなものである。

しかも、その進化がここ30年くらいの話しだから、「変化と多様性」の進化の度合いが激しいことが分かる。そんな現実を深掘りしてみると、わざわざ不便なものに執着しノスタルジーを楽しむのも程々にしないと、頑固嫌われ者になってしまい、己の主義主張や信条が時代にそぐわず孤立することになる。さらに高じれば評論家の西部邁さんのように自死することにも成りかねない。

言い換えれば、激変する時代の進化にノスタルジーに浸っていては居場所を見失い進化の恩恵に浴せないばかりか、周りからも疎んざられ取り残され寂しい想いをするだけである。自前の固定観念や思い込みにいつまでもしがみつかず、時代の先読みに希をつなぐくらいの弾力性は持つべきだと思う。

人は安全、安心、便利、快適だけでは幸せにはなれない。時に沸き上がる妄想やメンヘラへに悩まされる生き物だが、それは新たなプロダクトを生むチャンスでもある訳で、その意味から未来を見据え我欲我執を捨て断捨離を重ねながら、意欲を持って行動していくことに尽きるのではないだろうか。

そんな想いに、改めて今あることに感謝したい。

こんなテレビに育った訳だから、ろくな大人になる訳がない。笑える。

jpjapon について

3匹の犬と優しいけど時々意地悪な元気なおばさんと桃やブドウに囲まれた田舎で暮らしています。音楽と写真が大好きなパソコンフリークです。日々の想いを、聖書の御言葉や御仏の教えを交えて仲間と語り合うのが大好きです。平凡な日常から垣間見る世間の出来事を、自分流に書き綴っていきたいと思います。
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