不安や恐れからでなく、夢や希望から行動に移せば幸せになれる。その意味から、終末思想は百害あって一利なしである。確かに、世間に転がれば思い通りになることは少なく事故や災難に巻き込まれることがある。

しかし、人生は基本的に一寸先は闇、何が起こるか分からないのが現実で、明日があると思うこと自体がとんでもない思い上がりである。

しかし、反対にそんな儚い無常の浮き世だからこそ、現状が変わる要素があるわけで、その波に乗れば幾らでも現状を好転できる。

言い換えれば、変化と多様性の中、時と共に刻々と変わる空なる世界だからこそ、愛着や貪りの思いに囚われず、新たな夢と希望を持って創意工夫に努力を重ねれば、必ずや進化発展の末に、自分なりの居場所が見つかり幸せになれる訳で、見棄てたものではない。

しかし、それにしても、ネットを開けば明るいニュースは稀で、ネガティブ情報ばかりである。バブル崩壊、巨大地震の襲来、台湾有事に始まり、とんでもない預言者による日本終末預言など、まあ次から次とよく搔き集めてくるものと感心する。

そんな暗いニュースばかりに晒されていると、いつしか心がしなれてしまい、誠に宜しくない。朝起きて、庭の木蓮に目をやれば、連日の強風にもめげず、今年も白い大輪を咲かせているし、ヒヨドリも黒くて可愛らしくないが飛んできて鳴いている。さらに、根元には水仙が黄色い花をつけているし、深呼吸すれば新鮮な気分になる。

そんな訳で、この週末はお天気はそれほどでもないが、桜の開花も間近だから、桜餅でも買ってきて薄茶で季節感を堪能しようと思う。

改めて、今あることに感謝したい。

春は出会いと別れの季節、甘酸っぱい想いが桜の花に重なりあい、何とも言えぬ感傷に満ちた季節である。藤村の詞に改めて全てに感謝したい。

小諸なる古城のほとり   島崎藤村

小諸(こもろ)なる古城のほとり
雲白く遊子(ゆうし)悲しむ
緑なす蘩蔞(はこべ)は萌(も)えず
若草も藉(し)くによしなし
しろがねの衾(ふすま)の岡辺
日に溶(と)けて淡雪(あわゆき)流る

あたヽかき光はあれど
野に満つる香(かおり)も知らず
浅くのみ春は霞(かす)みて
麦の色わづかに青し
旅人の群(むれ)はいくつか
畠中(はたなか)の道を急ぎね

暮れ行けば浅間(あさま)も見えず
歌哀(かな)し佐久の草笛
千曲川(ちくまがわ)いざよふ波の
岸近き宿にのぼりつ
濁(にご)り酒(ざけ)濁れる飲みて
草枕しばし慰む

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残酷…

努力は遺伝に勝てない。当たり前の話しで、その現実を素直に受け止め、リスクヘッジやリスクマネジメントに使うしかない。

と同時に「 好きこそものの上手なれ」である。さらに「 類は友を呼ぶ」から、やはり価値観や世界観が似通った仲間や伴侶と暮らすのが一番である。それには、いろんなことに挑戦して、己れを知ることに尽きる。

そんな想いに、改めて今あることに感謝したい。

追加

さらに、

努力は遺伝には勝てないが報われる。より豊かに生きるにはやはり日々に切磋琢磨することが大切である。そんな想いに、今日も頑張ろうと思う。

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痴ほう…

最近、人気YouTuberらがこぞって250万もする高級カメラ「ライカ」を購入して、動画に加え写真への愛好を深めているが、確かに動画は観るのに時間が掛かる上、想像を想起させるものに欠ける。

それに比べ、写真は写り込んでいるものから、いろんなことが想起されて楽しい。正に世阿弥の「秘すれば花」、全てを見せられてはこちらが入り込む余地がなく、動画はある種のコミュニケーションを欠くようなところがある。

そんなカメラは時計や万年筆やクルマなどと一緒くたで、長く使えば愛着が生まれ、亡くなれば形見の品にもなる。しかし、この種のものは唯一一点モノでなくてはその大切さが担保されないような気がする。

そんな中、終の棲家と、暇に任せて家中のガラクタや思い出の品を片付けてきたが、己れのモノへの拘りや貪りの心が見え見えで、何たる半生かと神仏に会わせる顔がない。

まあ、あの世に旅立つには、内なる自我に立ち向かい空なる世界を観ぜなくては能わぬと言うが、今現在の望みは痴ほう症にならぬことに尽きる。まあ、ボケてしまえば周りの人が大変だが、本人はのほほんとしている訳だから、構わないと言えば構わないが、この辺の曖昧さには、不可解極まりないものがある。

それでも、老いても痴ほうに成り難い生活習慣があるようなので調べてみたところ、1 頭部損傷 2 過度な飲酒 3 難聴 4 高血圧 5 肥満 6 鬱 7 喫煙 8 大気汚染(排気ガスPM2.5)居住環境 9  運動不足 10 糖尿病 11 社会的孤立 12 教育の12項目を目安に生活習慣を見直すといいらしいが、具体的取り入れる努力が待たれる。

いずれにせよ、老化は防ぎようがないから、私的には出来ぬことは切り捨て、成り行きと諦めの中に、空なる世界を観ぜせしめる日々日常を第一に過ごしていこうと思う。

改めて、今あることに感謝したい。

それにしても、若手日本の女子は大したものである。正に日本の課題である。子育てに暇のないお母さんを代弁して頑張ってもらいたいと思う次第である。

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自由とは…

ガーデニングもいいが、やはり音楽は捨てられない。光陰矢の如し、一時たりとも無駄にできない。それにしても、自分なりに生活を楽しむと言う視点からすると、日本は欧米にかなり遅れている。

まあ、「皆で渡れば怖くない」的な発想では、自分を見失う。法律や差別や偏見、同調圧力に囲まれて生きる社会そのものの本質には、時に自由と相反する規制や秩序に、救い難いものがある。

改めて、自由の本質を問いたい。

今がよければ明日もいい。全てが今にある。改めて、今あることに感謝したい。

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意味

時折暇に任せて世界遺産のビデオを拝見するが、つくづく世界は広いと思う。日本の遺産も然ることながら、西安からヴェネチアに至るシルクロードに沿った世界遺産の数々にはその雄大さに度肝が抜かれる。

交易や侵略による繁栄と没落、その世界観や宗教観の変遷などを拝見すると、飽くなき生活への執着と欲望が伺え、栄枯盛衰の本質に迫る想いに、人の世の儚さや拘りの無意味さを痛感する。

シリーズもので買い貯めたレコードと同じように、恐らく全部は観切れないと思うと情けなくなるが、無理して観るものでもないから、暇潰しに観ている。

しかし、視線を現実に戻すと、ここにきて高齢社会の現実を具に感じる訳で、重篤な病で病院通いしている話しなど聞かされると心が萎れる。私的には東京~名古屋間を孫とリニアに乗って旅することが積年の夢であるが、どうやら当初予定の27年には完成しないばかりか、国内外の状況によっては完成は10~20年先になるやも知れず、静岡の川勝知事の評価が待たれる。

いずれにせよ、人生はスクラップ&ビルド、夢と希望の実現に意味がある訳で、生命ある限り、いろんなことに挑戦して、自分なりの人生を豊かに有意義なものにしていかねば、後々後悔することになる。

世界遺産ではないが、時が経てば多くが塵芥と化し忘れ去られる運命にある訳で、現世の邪気とも思える思い込みや価値観や世界観に囚われていては、全く無意味な人生に終わってしまう。

そんな想いに、悠久の歴史に触れることは、新たな視点を呼び起こす契機にもなる訳で、朝日に向かい今日も思い込みを捨て更なる気持ちで、残された時を有意義に過ごそうと思う次第である。

改めて、今あることに感謝したい。

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コーヒー

コーヒーはおつきあい程度で自発的に飲むことはなかったが、退職を契機に妻と昼をするようになって妻がコーヒーを立てるので、自然とコーヒーを飲むようになった。

習慣と言うか食後のコーヒーは食をしめくくるような感じで妙に落ち着く。それで、いつしか昼も夜も飲むようになって久しいが、先日ネットでコーヒーのカフェインが良質の睡眠を妨げると言うから、午後2時以降は飲まないようにしたところ、夜トイレに起きる回数が減り、朝スッキリ目が覚めるようになった。

睡眠は昼の活動で生じたアミロイドβを脳内から締め出すと言うが、睡眠不足が続くと脳細胞にこびりついて取れなくなってしまうらしい。それがアルツハイマーの引き金になるらしく、適当な運動が効果的と言われる。まあ、健康の秘訣は、適切な運動、睡眠、食事に尽きるが、なかなかセオリー通りにいかぬところが悲しい。

そんな中、先日の強風でDIYに用意したアルミドアが倒されガラスが割れてしまい、そのガラス破片の片付けついでに畑を耕したら身体が温かくなって気分爽快だった。とにかく今年はお正月のぎっくり腰に始まり親知らずの抜歯や首痛の再燃から家の中に引きこもりがちで、妻に畑作を促される始末、自分でもお神輿が立たずに困っていたところである。それが先日の強風でケジメがついた訳だが、自発でなく外圧によらねば変われないところは、どっかの国に似ている。

そんな自分にむち打って今年も畑作に頑張ろうとした矢先、自治会の役員が訪ねてきた。話が終わり暫くすると何にやら雲行きがおかしくなり、雨が降り出し、またしても出鼻を挫かれた。惰性やマンネリとは言わないが、多少の面倒臭さも手伝って早々に打ち切るところは、少なからず身体機能の衰えでもある。

しかし、何事も思い立ったら吉日、人目を憚り直ぐやらないようではジジババ、病院通いや寝たきり介護や棺桶が待っているだけで、精彩を欠くシャビーな老人になってしまう。

何事もメンテ、年齢ではない。小綺麗な女性を見れば自然と目がとまるし、若くてもそれなりなら、それなりでしかない。見た目は全てではないが、やはりその人の知性や想いや「人となり」が表れる。

そんな想いに、とにかくピンピンコロリ、自分なりに家族や世間様にはできる限りご迷惑をお掛けしたくない。すべからず健康寿命を平均寿命にまで延伸し、自分なりの達成感を持って愛犬の待つ虹の橋に馳せ参じようと思う。

改めて、今あることに感謝したい。

それにしても下念司さんの話しには、いつも驚かされるが、確かに今年は辰年だから、それなりに予感が的中するかも知れない。竜神様のお力に期待したいと思う。

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時とは…

ご案内のように、2019(令和元)年における日本人の平均寿命は男性81.41歳、女性87.45歳だが、元気に活動できる健康寿命は男性72.68歳、女性75.38歳と言われ、それぞれ約9年、約12年の隔たりがある。

つまり、男女共に約10年は何らかの疾患を抱えて生きることになる訳で、夫婦共に老後を健やかに心豊かに生きられる期間は意外と短い。

活力ある社会を実現し、社会保障制度を持続可能なものとするためには、平均寿命を上回る健康寿命の延伸を実現することに尽きるが、働き方改革や年金制度改革でそれが実現可能かどうか疑わしい。

なぜなら、今の職場は人員減らしでコストカットしており、昔と比べればゆとりがなく、かなりハードな職場環境にあるからで、電通のエリート社員や勤務医が過労死していることからも、勝ち組負け組を問わず、誰もが身を削る思いで働いているからである。

まあ、若い時ならともかく、年金受給年齢に差し掛かれば、新たなことに挑戦するにしても、残された時間を如何に有意義に過ごすかが課題となる。日々日常、知らぬ間に刷り込まれた価値観や意識で、大切な人生を台無しにしているやも知れず、老いゆけば、子育ても終わり、社会的な責任から外れ大手を振って歩ける訳だから、本来の自分に目覚め生命を全うしなくては、次元上昇への恩恵にも授かれない気がする。

とにかく、物事は考え方次第で善くも悪くにもなる。同じことでも納得しない限り、それは借り物の服を着ているようなもので極めて着心地が悪い。仮に黄金の玉座に座り贅の限りを尽くしても、本来の意識に目覚めなくては借り物の服を着ているようなもので、いずれは己の意志を確かめることもなく地上の塵と化すことになる。一方、山野の草庵にあっても己に目覚め納得して暮らせば、春は野鳥に秋はコオロギを友に、山野の花ばなに囲まれて幸せに暮らせるかも知れない。

いずれにせよ、老いゆけば、世間の価値観や世界観から外れ、子供の時のように無邪気に暮らすが一番である。善くも悪くも世間は邪気に他ならない。無邪気とは正に良寛和尚の子供と遊ぶ世界にある。

そんな想いに、今日も一日が終わる。未だに知らぬことばかりなのに、悪戯に時が過ぎていく。改めて、生きる意味を問いたい。

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毎朝6時になると近くのお寺の鐘が鳴る。6時ピタリでなく必ず5~6分前に鳴るのが解せない。何か意味があるのだろうか、調べてみたくなった。それにしても、昨夜は深夜までビデオ三昧、垢抜けない昭和のテレビコマーシャルに笑ってしまった。今や全盛のAppleやGoogleやSAMSUNGのカッコいいCMもダサく感じる時が来ると思うと、やはり物事への執着は考えものである。

そんな中、最近結構人気の動画YouTuberさん達が軒並み高額のライカのカメラ(250万を超えるレンジファインダーのレトロ風の高級カメラ)を立て続けに購入して動画から写真に乗り換える傾向が見受けられる。オートフォーカスでなくマニュアルフォーカスの何の変哲もないカメラだが、一つ一つが手作りで美術工芸品と言える作りをしている。そんな高級カメラでピントをわざわざファインダーで合わせて、ここぞと思うシャッターを切る醍醐味はスマホのAIカメラとは一線を画するものがあるのだろう。

それにしても、人間とは本当に贅沢で欲張りな生き物である。私的にはフィルム時代に上から覗いてマット面に左右反対の写像を見ながら絵づくりをするタイプのレトロカメラへの想いが拭えないが、その頃の白黒写真には何とも言えぬ趣がある。一枚一枚がお金も手間も掛かり丁寧にならざるを得なかった訳で、今のように4000万画素の精細写像が簡単に得られる技術の進化には驚きしかない。仮に昭和の時代にこんなものを見せられたら、正に原始人がヘリコプターや飛行機に遭遇したようなものである。

しかも、その進化がここ30年くらいの話しだから、「変化と多様性」の進化の度合いが激しいことが分かる。そんな現実を深掘りしてみると、わざわざ不便なものに執着しノスタルジーを楽しむのも程々にしないと、頑固嫌われ者になってしまい、己の主義主張や信条が時代にそぐわず孤立することになる。さらに高じれば評論家の西部邁さんのように自死することにも成りかねない。

言い換えれば、激変する時代の進化にノスタルジーに浸っていては居場所を見失い進化の恩恵に浴せないばかりか、周りからも疎んざられ取り残され寂しい想いをするだけである。自前の固定観念や思い込みにいつまでもしがみつかず、時代の先読みに希をつなぐくらいの弾力性は持つべきだと思う。

人は安全、安心、便利、快適だけでは幸せにはなれない。時に沸き上がる妄想やメンヘラへに悩まされる生き物だが、それは新たなプロダクトを生むチャンスでもある訳で、その意味から未来を見据え我欲我執を捨て断捨離を重ねながら、意欲を持って行動していくことに尽きるのではないだろうか。

そんな想いに、改めて今あることに感謝したい。

こんなテレビに育った訳だから、ろくな大人になる訳がない。笑える。

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いにしえ

保管ビデオの中に「美空ひばり特集」があり観てみたところ、アメリカンポップス並の歌い方をしていて、改めてひばりの歌唱力の凄さを痛感した。新宿コマ劇と言えば「ひばりの歌謡ショー」が思い浮かぶが、祖母がひばりの大ファンでよく観に行っていた。その頃はフォーク全盛の時代でもあったから、私は頭から演歌をバカにして目もくれなかった。

しかし、ひばりの最後のヒット曲「乱れ髪」を聞き、その一節に「春は二重に巻いた帯、三重に巻いても余る秋…」と言う歌詞を絶妙に唄うひばりの歌声に衝撃を受けた。歌謡ショーを観るチャンスは幾らでもあったのだから、一目でも本物のステージを観ればよかったと思う。

とにかく、レビューにしてもライブにしても、少なくとも何千人単位の観客のエネルギーを演者は受けとめる訳だから、なまじの精神力ではこなせない。そんな真剣勝負の舞台だからこそ観る価値がある訳で、歌舞伎の玉三郎が一舞台一舞台が真剣勝負「いつまで舞台が踏めるものかと思う…」とインタビュアーに応えていたことを思い出した。まあ、身を削っての舞台と言うことになる。

そんな舞台だからこそ、観る価値がある訳で、客席にもその真剣さが伝わってくるところにスピーカーや画面では味わえないものがある。

そんなことで、今日はやっとやる気になって電動カンナの治具作りを始めたところ、Amazonから購入した部材が私の電動カンナと規格が合わず組み立てが出来ない。仕方ないので、懐かしのビデオをひっくり返したところ「ひばりのビデオ映像」に巡り会えた訳で、これも何かのご縁である。

改めて、今あることに感謝したい。

この歌は泣ける。大衆芸能の真髄ではないかと思う。

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夜の静寂に全てを忘れたい。改めて生きる意味を問いたい。

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